ソチュロン

 

 卒業論文に日々追われております。卒業論文を卒論に言い換えたところで、分量が半分になる訳では無いのになぜか軽率になる。「ソチュロン!ソチュロンヤバヒ!」この時期の大学四年は阿呆である。論文という大それたものを成し遂げようとする者などいない。卒業するためにひたすら文字を打ち続ける、それがソチュロンである。

 

 やりたくもないのにやり始めるといいものを作りたくなってしまう面倒くさーい性格の私は大苦戦を強いられている。卒業論文完成を目指すわしとソチュロンカンシェイを目指すわし。4年間大した勉強もしてないのだから、あきらめてもじをかせげばいいのよ、レッツソチュロン!

 

少しばかりはがんばりますね。

 

 

夏を手放しきれない秋に魘されて眠れないなら、何をしようか。

 

毎日ニュースで事件や事故を扱うのは、不安な気持ちが購買意欲を高めるから、らしい。何に操られて何に踊らされて、誰が踊って何を踊っているのかはさておき、世の中の仕組みを完璧に理解しきっても、エジソンは偉い人、それに自分何も出来ないちっぽけな蟻みたいなもんだろうから、タッタタラリラ。

 

正しい歌なんて、いらない。言葉の意味なんて、いらない。考えるだけ無駄。感じたことを書くだけ伝えていくだけ、その繰り返し。踊れ。

 

 

 

17、18歳の高校男児が白球を投げては打つ投げては打つ戦いが終わり、夏なんか終わった気がしている。地球温暖化なのか異常気象なのか、はたまたわしがアホなのか とにかく暑い。「おいおい、外に出ると死ぬぞ。」なんて冷房ガンガンの部屋でテレビに呟く。

 

「晴れたら暑いから、雨の方がマシ」と言ってしまうタチなのに、雨が大の嫌いである。団扇を仰ぎながら出かけてみれば、「まぁ、夏か」とそれはそれで好きなのである。

 

本心の裏返しの裏返しが本心かどうかを探り合う学生時代に「見えるものが正解だよ」と言いたい。僕は夏が好きだ。

 

 

同じ場所にいて同じものを食べて同じような生活をしていても 感じ方次第で充実させたい、がモットーである。一をみて十くらいは感じたい。だからくだらないアイスが当たった話もするし ストーリーに猫を載せたりする。今では見過ごしがちな景色を 純粋に綺麗だと言えた幼い頃にはもう戻れないけど 童心を忘れない大人になりたい。

 

無数にある切り捨ててきた道の一本一本を後悔することはあっても たった一本の歩いている道にはなかなか目がいかない。なんとなく歩いている、気づけば思ってたよりも5、6歩先を歩いている感覚。そんな中で 見上げた星空が綺麗だと思える感情は描き消したらいけない。忘れるなら残す、歓びを共有する。エゴでも自分を肯定していきたい、誰も傷つかないなら正解だと思う。

 

運命とやらを信じるか信じないか、みたいなことは その行動のドラマチック度合いに支配される気はするが、「巡り合わせ」はあると思う。

 

この巡り合わせを、僕は信じたい。

 

 

 

海開き

 

自分の口から出た「海開きしたからねえ」の言葉に夏を感じた。これぞ夏の醍醐味、海に行こうよと誘う美女への理想の返答である。誘われた嬉しさを飲み込んで 「まぁ行ってやるよ」と言わんばかりにかっこよく決めたい。そんなやこんなで今年の夏は快晴だなぁ、なんてことはあるはずなく。バイト先のベトナム人(男)(29歳)の「あちゅいからかじょくでぇうみにいきぃましゅ」に対するわたくしの返答が 明後日の方向を見ながら興味なさげに放った「海開きしたからねえ」である。こんな夏を何回繰り返すのだろうか。冴えない夏をタイムリープしてるのかもしれん。

 

 

暑い

 

神戸に加入したイニエスタが 初めて覚えた日本語は「暑い」だったらしく これは過去一シンプルなの流行語大賞になるのでは?と密かに思っている。とにかく暑い。エアコンが必要不可欠。1時間後には家を出ないといけない朝でさえ25℃の強風を躊躇いなくスイッチオン。28℃エコ設定だった去年は電気代が冬より安く、それ以来ガンガンである。

 

天気予報を見ている限り 体温みたいな温度が日本地図を囲んでいることに間違いないが、それにしても暑すぎる。気温は高くなり、エアコンの温度は日に日に低くなる。わたしは気づいた。その差が開くにつれてどんどん苦しくなっているのではないかと。

 

彼女の恋愛に対するあまりの重さに飽きてしまった。依存基質な彼女は離さまいと熱意は上がるとは裏腹に 彼はどんどん覚めてしまって…みたいなものかもしれん。

 

夏には涼しい恋愛がみたい。あーめん。

 

 

 

疲れているはずなのに眠れない夜がある。学期末という時期が時期なので 連日課題課題の日々に、先日通い始めた車校が追い討ちをかける。これは忙しい。寝たいはずなのに寝れないというのは如何なるものか。

 

自分の中では“寝落ち”が理想である。まさにバッテリー切れ。朝起きた時の「あぁ…寝てしまっていた…」感が昨日一日の頑張りを讃えてくれるような気がする。時間がない朝にこれからシャワーを浴びないといけないと思いながらも、にんまりしてしまう。とんだ阿呆である。

 

寝る前に真っ暗な天井を見上げて 一日を振り返るのが日課になりつつある。朝からの行動を思い返すうちに「あ、空きコマにレポート課題終わらせておけば…」「あ、爽健美茶二本も買わなければ…」「あ、〇〇ちゃんに話しかけておけば…」なんて後悔しか浮かばない。もやもやして眠れない。ならばと布団から起きて奮起した時には レポートの提出期限は過ぎ、爽健美茶はバックの中で生温くなり、〇〇ちゃんは寝ているのである。こういう日々を送るわたくしに幸せは来るのだろうか。不安になる午前3時26分である。